パブリック・ディプロマシーの概念
アメリカン・センター—アメリカの国際文化戦略 渡辺 靖 岩波書店 このアイテムの詳細を見る |
パブリック・ディプロマシーとは、ざっくり言うと、国の文化的な成果や政治的な考え方等の価値を海外に対して発信して、外交上有利にしていこうという考え方である。アメリカは、かつて、彼らの持つ自由の概念を、世界に対して発信することにより、影響力を与えたり、自分達の行動を正当化したりしてきた。しかし、アメリカのパブリック・ディプロマシーは、ベトナム戦争やイラク戦争等を経て、色あせてしまった。冷戦が終わって、アメリカのパブリック・ディプロマシーに対する取り組みは低調になったが、9.11・イラク戦争を経て、アメリカに対する世論が厳しくなるのに影響され、再び見直されるようになった。しかし、その成果は芳しいとは言えない。この本はその歴史をまとめている。最初の方は少し退屈だが、徐々におもしろくなってくる。
フーガの技法 by ミュンヒンガー
バッハ:フーガの技法、他
アーティスト:ミュンヒンガー(カール) |
自分が購入したのは輸入盤で1600円くらいだった(2枚組)。レビューで割とほめられてて高くないし、試しに買ってみた。弦楽合奏によるものだ。
一聴して・・・古っ・・・。録音が古いのではない。解釈が古いのだ。今どきこんなロマンチックなバッハは聴けない。ストコフスキーかよ・・・とか突っ込みたくなった。はずしてしまった・・・ヤフオク出すか。フーガの技法は名曲だと思うので、何か良い演奏がないかと思っているのだが・・・。
共産主義としてのニューディール
アメリカ大恐慌—「忘れられた人々」の物語(上) アミティ・シュレーズ エヌティティ出版 このアイテムの詳細を見る |
最近、ややはやりの大恐慌本の上巻を読んだ。我々が中・高校生のころは、TVAは成功例として教えられたものだ。今から思うにそれは左よりの教科書ということなのだろう。この本では、ニューディール政策が共産主義の影響を大きく受けていること、政策はかなり迷走したこと、実際はそれほどうまくいっていなかったこと、等を示している。WSJやFT誌で執筆するような人であるから、社会主義的なものに対する否定のバイアスはかかっているかもしれないが、今の目から見るとおそらくそれなりに妥当な見方なのだろう。現在のアメリカや日本の政策はニューディールの失敗に学んでいない、ということはできるかもしれない。
カラヤンによる新ウィーン楽派
昨日紹介した、カラヤンによる新ウィーン楽派管弦楽曲集だが、一通り聴くことができた。この録音をカラヤン最高のものという人もいる。私の感想だが、シェーンベルクは総じて名演であったが、ベルクとウェーベルンはあまり評価できない。何か、時代がかっているというか、身振りが大げさなのだ。まるで、フルトヴェングラーのベートーヴェンを聞かされているみたいだ。今となっては古い演奏だ。我々はブーレーズ等によるスリムで整理されたウェーベルンやベルクを知ってしまっている。カラヤンにとっては、「現代」音楽だったんだろう。しかし、我々からすれば、これらは前世紀の古典音楽だ。シェーンベルクが成功しているのは、その演奏スタイルと曲がマッチしているからかもしれない。
高音質CD初体験:カラヤン・ベルク他
新ウィーン楽派管弦楽曲集
アーティスト:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン) |
高音質CDにはずっと興味があって、いつか買おうと思っていたが、やっと一組入手することができたのでレビューしてみよう。高音質CDとは何かというと、従来のCDと全く互換性を持ちながら、ブルーレイディスク等で得られたノウハウを投入することによって、音質を向上したというもので、CD出版3陣営(ユニバーサル・EMI・ソニー)からそれぞれ規格が出ている。
選んだのは、カラヤンによる新ウィーン楽派管弦楽曲集である。これはLP時代の名盤とされている。高音質CDはなかなか割引で売っていないのだが、これはHMVで23%オフの対象になっていたので買ってみた。SHM-CDという規格で、CD素材に液晶パネル用途のポリカーボネート樹脂を使用しているため透明性が向上し、正確なビットを形成できるのだそうだ。自分はこれのCD版については、ベルクの2曲だけを、ベルク全集の一部として持っているので、それと比較してみることにしよう。
まず、元のCD版についてだが、カラヤン主義者の私を持ってしても、うるさいと思わせる演奏だった。ベルクの演奏としては、必ずしも優れたものではない。力で押しまくっている。録音は情報量は多いもののややノイジーな感じであまり優秀な録音とは思っていなかった。
さて、SHM-CDを聴いてみた。・・・。うーん。やはりうるさいというのは変わらない。ただピアノの分解能がちょっとあがってるかな〜という気がするが、気のせいっぽいような気もする・・・。値段の差ほどのありがたみはないようだ。
ちなみに、一緒に入っていた浄夜を聴いてみたら、これはすごい演奏だった。録音も多少うるさいが優秀だ。高音質CD関係なく名演の一つに数えることができるだろう。
フランス革命史(下)
フランス革命史〈下〉 (中公文庫) ジュール ミシュレ 中央公論新社 このアイテムの詳細を見る |
先日紹介したミシュレのフランス革命史の後半である。ルイ16世の処刑から、ロベスピエールの死までが書かれている。この後半の方が(血なまぐさいが)おもしろい。フランス革命がロベスピエールの独裁に至ったのは、仕方ないところがあるのがわかる。革命の混乱に乗じて周辺諸国が干渉してきて、多面作戦をとらざるを得ず、強力な指導力が求められたのだろう。明治維新において、欧米の干渉を受けなかった日本は幸運だった。軍隊を整備する時間を取ることができた。もし南北戦争がなかったら、日本の運命は違うものになっていたかもしれない。ロベスピエールに対する著者の感情は複雑だ。その独裁は責められるべきであるが、彼は革命には不可欠な存在で、革命の思想を体現している・・・という見方ではないかと思う。過度な賛美もしていないが、軽蔑もしていない。ある程度距離を置いて見られているのではないか。しかし、フランス革命の歴史的な意味というのは評価が難しい。
第614回定演:フォーレ「ペレアスとメリザンド」シシリエンヌ
シシリエンヌはフルートの曲だ。しかし、終結部に重要なソロがクラリネットに割り当てられている。
分散和音で上がるクラリネットの典型的なソロだ。こういうのはきちんとやらなければならない。スタートがmfだから結構思い切って入る必要がある。上昇音型でのdimはちょっと難しいが、自分はあまり意識せず(意識すると貧弱になりそうだったからだ)、登り切ったところでちょっと減衰するくらいにして、dimの位置を後ろに下げるという方針をとることにした。さて結果はどうだったか・・・失敗・・・。上昇しているときにバックとずれた(後ろにも責任はある)。自分は基本的にサクサクと行きたいので、ちょっと待つ感じになってしまった。そして最高音に着いたところで、着地点を見失った。で、こんな具合に引っかかってしまったのだ。残念。あとちょっと小さくしすぎた。限界までいけるかなと思ったけどやりすぎた(何か懺悔の場と化しているな・・・)。
私小説に見るアメリカ
私小説—from left to right (ちくま文庫) 水村 美苗 筑摩書房 このアイテムの詳細を見る |
この本は先日紹介した「日本語が亡びるとき」の著者による作品だ。宣伝されててつい買ってしまったが、おもしろい。一気に読んでしまった。横書き左から右で(これがfrom left to right)、英字混じりの日本語はなかなか新鮮だ。著者のアメリカ体験に基づくものであり、「日本語が〜」のベースになっているから、「日本語が〜」に関心を持つ人なら、おもしろいと思う。この本が書かれたのは、1995年であるよって、想定されている状況はそれよりちょっと前のバブルの頃あたりのようである。このころは、昨日話題にした多文化主義は出始めのようである。現在ほど深刻ではないにしても、マイノリティの地位が向上しだした時期である。日本人としてアメリカに生きることの難しさ・・・。いろいろと考えさせられる作品だ。
第614回定演:フォーレ「ペレアスとメリザンド」前奏曲より(2)
前奏曲のラストはクラリネットに重大な役割が与えられている。
最後に冒頭の主題が再現される直前、このソロがある。この箇所の最大の問題点は、普通の人では一息で吹ききれないことだ。自分は3枚のCDを持っているが、それぞれ以下のような解決をしている。
解決1)(多分)二人で吹く(スイスロマンド)
解決2)6小節目のGとEの間で息をとる(ボストン)
解決3)7小節目のGとFの間で息をとる(フィラデルフィア)
解決1はよほど二人の音色がそろっていないと難しい。解決2・3はcresc.の頂点で息をとることになるので、自分には選択しづらかった。自分がとった解決法は、
解決4)6・7小節目の境で息をとる(私)
だった。その分ちょっとcresc.を遅らせた。cresc.の途中で息をとると目立つからである。曲を知っている人はがっかりかもしれないが、自分はこういうときは割り切ってがっちり息をとってしまったほうがよいと考える。自分の演奏はどうだったか。まず3小節目の出だしをミスった・・・(録音に残らないかと思ったけど甘かった)こんなミスは練習ではなかったのに・・・本番は怖い・・・。ブレスはそれほど不自然ではないと思うがどうだろうか。今回はちょっと音が暗めだったかな・・・。
アメリカの変容
分断されるアメリカ サミュエル ハンチントン 集英社 このアイテムの詳細を見る |
アメリカがこんなことになっているとは知らなかった・・・。本は読んでみるものだ(それほど最新ではないけど)。アメリカは元々プロテスタントの国だった。移民はたくさん流入したが、基本的には彼らはプロテスタント的な文化に同化し、新しいアメリカ人になって社会に進出してきた。しかし、(特にメキシコからの)最近のヒスパニック移民の急激な増加は、アメリカに新しい問題を発生させている。ヒスパニックはアメリカ的な文化には溶け込まず、英語も十分に話せず、スペイン語しか使えない。しかし、その数が増加していることと、ヒスパニックから社会的影響力を持つ勢力が出てくることによって、ヒスパニックが母国語の文化を保持し、かつ政治的にアメリカに対して影響力を持つようになっている。また、アメリカのリベラルなエリートが多文化主義的な考え方を持つことから、政策にそれが影響され、特にヒスパニック移民の多い南西部(ロサンゼルス等)などから、二カ国語的な社会が発生している。企業から見てもヒスパニックの市場を無視できなくなっている。二カ国語(英語・スペイン語)ができるほうが、英語だけしかできない人間よりも高給を取れるという状況になっている。
これは、アメリカのアイデンティティの危機である。今やアメリカ的プロテスタントはマイノリティになりつつある。それは人数だけではなく政治的・社会的にもだ。しかし、未来のアメリカを一つにするアイデンティティというのは難しい。もはや人種・宗教はアメリカのアイデンティティではなくなりつつある。自由・平等・民主主義等の理念なのかもしれないが、理念をもって国のアイデンティティとして成功した例というのはあまりない。
ヒスパニックを例にあげたが、他の民族(アラブ人等)も同じような現象が現れている。アメリカで独自な文化を維持し、政治的な力を持ち、政策に影響を与える。アメリカはこれまで移民のバイタリティによって活力を得てきた。しかし、現在、移民により一種の侵略を受けている状況にある。
この本の著者は基本的に、アメリカのプロテスタント的な文化に価値を見いだす保守派の傾向があるが、明確な今後の指針は示せていない。私が日本人として気になるのは、じゃあ日本人はこのグローバルな侵略競争の中で存在感を見せているのだろうか?日本人や韓国人は基本アメリカの勤勉な文化に馴染みやすかったら、自分の文化を割と簡単に捨てて、アメリカナイズしていった。韓国人・中国人の活躍は聞くような気がするが、日本人の活躍はあまり聞かないような気がする。