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日本の造船業界の結果オーライな現状

日韓中、泥沼の造船三国志

造船業界も世界的な不況で、受注が激減する厳しい状況になっている。韓国・中国は特に、攻めの経営を行っていたために、人員・設備過剰という問題に陥っているが、

一方、日本の造船業界首脳の間ではまだ、それほど悲壮感はない。今回の造船ブームでも大幅な設備増強に踏み切らなかったためだ。2012年末までの受注残もある。昨年は業界全体で1500億円ものコストアップ要因になった鋼材費も今年は値下がりが確実で、当面は3〜5%程度の売上高営業利益率を確保できる見通しだからだ。

なのだそうだ。これは安心できる状況と言えるのだろうか?

長く業績低迷が続き、採用を抑制してきたことから、設計技術者の高齢化が進む。海外展開や業界再編も遅れた。

だそうだ。結局守りの経営が、結果オーライな状況になっているだけだ。ここでも技術者の高齢化が進んでいる。このままでは早晩競争に負けてしまうのではないかという懸念はぬぐいきれない。しかし、やはり若者にしわ寄せが来ている。若者に技術が蓄積しないという状況は問題だ。日本はこのまま死にゆくしかないのか・・・

幕末を学ぶ

幕末史

半藤 一利

新潮社


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最近のベストセラーだ。週刊ブックレビューで情報を得たので読んでみた。わかりやすい口調で語られているけれども、基本二次・三次情報なので、ちょっとな〜という感じもする。著者は薩長中心の史観を見直したいと語って書いている。その意図はまあまあ実現しているとは思うが、東北出身の自分からしてみれば、それほど新しいとは思わない。明治維新の「偉人」というのは、よく尊敬の対象になるけれども、自分はあまり尊敬する気にはなれない。基本、暴力革命だと思うからだ。筋を通して共和制を主張した東北は、戊辰戦争で粛正され、主流から外される。下北半島に移住させられるという、極めて厳しい処分を受けた会津藩の心中を思うと胸が痛む。理不尽だ。その感覚は変わらなかったから、今後も維新を追求しようという気にはあまりなれない。

JAO宮崎大会:ニールセン「不滅」第二楽章再現部

こちらはB管だ。この頃は大分落ち着いてきて演奏することができていて、押す感じも少なくなっている。Fisの音を使わなければいけないところで、若干音が開く感じがある。また音の輪郭が若干A管よりもはっきりしているような気がする。
両者の比較では、出来は落ち着いている再現部のほうがマシなものの、ややA管のほうが音が落ち着いている感じがするがどうだろう。やはり管による音の差というのはあると思う。それでは、管の選び方についてどういうポリシーを持つべきかという論になるが、ちょっと長くなりそうなので続きは明日とする。

JAO宮崎大会:ニールセン「不滅」第二楽章冒頭

2006年の全国アマチュアオーケストラフェスティバル宮崎大会の自分の演奏だ。この演奏を取り上げたのには訳がある。先日の楽器違いの音色比較が少しおもしろかったので(自己満足だが)、その続編をやってみようということなのだ。それはオケのクラリネット吹きなら、誰もが興味があり、苦労もする、A管とB管の差だ。
不滅の第二楽章では、全く「同じ音」のパッセージをその冒頭と再現部で、A管とB管で吹き分けなければならない。「同じ」音だから、吹く方は半音ずれるわけだ。半音ずれたパッセージを吹かされるほうはたまらない(その苦労はきっと参加者には分かってもらえなかったと思う。ファゴットは同じ音だからずるい・・・)。その意図は、自分にはイマイチわからないのだが(持ち替えはきついというほどではないので、同じ管で吹こうと思えば吹けないことはない)、それを聞き比べてみよう。
まずは、冒頭。これはA管で吹かれている。この入りというのは、第一楽章の騒々しさが段々と引いていって、完全に静かになった状況で入らなければならず、相当な緊張が要求される箇所だ。寿命が縮む。正直このときはA管がさっぱり鳴らなくてフラストレーションがたまっている状態での演奏だった(本番前にえらい待たされたのだ)。無理に鳴らそうとして押しているのがわかる。(実音の)AやAsがやや低くなっている。かなりあげる努力はしたが、セルマーの楽器の癖だと思う(カルボナーレも低かったから)。最後の方は息が足りなくなっていて、十分に音が鳴っていない。A管のほうが若干息は余計に使うと思う。
B管はまた明日・・・

佐藤秀峰氏が報じる講談社の搾取

かなりいろいろなニュース記事で取り上げられたので、見た人は多いだろう。ここでピックアップするのは、My News Japanによる記事だ。My News Japanは基本有料サービスだが、記事のさわりだけは無料で見ることができる。さわりだけでも結構おもしろいので自分は登録せず無料のまま見ている。下の記事のように全文公開してくれることもある。

佐藤秀峰氏が報じる講談社の搾取

講談社は作家を下請け扱いでバカにし、好き放題やって搾取しているのだった。27歳で年収1200万円、40歳で1800万円、60歳まで終身雇用で生涯年収7億円という、自らの高給を維持するために…。

だそうだ。ここにも正社員の既得権を守るための搾取が存在しているのだ。しかも、これはちょっとひどくないか?。マスコミの高給ぶりとその搾取は(番組捏造事件で)良く知られるようになったが、出版社がここまでとは思わなかった。新聞ほどではないが、出版社というのも斜陽産業だ。

佐藤氏には、とにかく「ネットでも」連載してほしい。著作権を持っているのは出版社ではなく、佐藤氏だ。だから、「シングルソース、マルチユース」で、スピリッツに連載しつつも、同時(か1週遅れでも)にネットやケータイに配信して有料課金をすべきだ。たとえば私は、他の作品と「抱き合わせ販売」されてしまうスピリッツは買わないが、佐藤氏の作品だけはお金を払って読みたい。1週分で300円くらいは普通に払いたい。だが佐藤氏は、払いたい人から取れていない。

私もこの意見に賛成だ。ネットを上手に利用して、搾取から解放されて欲しい。

イギリス人によるフランス革命批判

フランス革命の省察

エドマンド バーク

みすず書房


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レビューを出すときは、基本、本を全部読み終わってからにしているが、この本については読み切ることができなかった。エドマンド・バークは18世紀のイギリスの政治家だ。この本は、フランス革命に対して、イギリスの保守主義的な視点から批判を行う、というもので、保守主義の古典として有名な本だ。伝統を重視せず、社会の全てをひっくり返してしまうような革命を否定する。皮肉に満ちた、古くさい(日本語訳だから原文は知らないけど)文体で、延々と批判を続ける。2/3くらいまで読んだが、いい加減、お腹いっぱいになってしまった。Wikipediaで見ても、フランス革命というのは、その意義が疑問視されているそうだが、自分も歴史的意義は認めるが、その、ちょっとドラスティックなやり方とか、革命後のダッチロール的な状況とか・・・いけてないと思う。

また、神の重要性を説いている。国のモラルの源泉が神なのだ。日本において神ということになると、天皇のことを考えざるを得ない。神なくして国のモラルを保てるのか?もう少しいろいろと知る必要がありそうだ。

アバド礼賛(その2)

次に歌を含まないものを2つ挙げよう。

 /Piano Concerto.1  2: Pollini(P) Abbado / Cso +2 Portraits: Mintz(Vn) /Piano Concerto.1 2: Pollini(P) Abbado / Cso +2 Portraits: Mintz(Vn)
販売元:HMVジャパン
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ポリーニ・アバドともに脂ののりきったころの名演。リズムの切れ味・強烈な掛け合い等、バルトークの魅力が満載だ。特に2番の最終楽章はジェットコースターに乗っているようなスリリングなものだ。これらの曲の決定版と言えるだろう。

 ヤナーチェク:シンフォニエッタ、他 ヤナーチェク:シンフォニエッタ、他
販売元:セブンアンドワイ
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ヤナーチェク・(特に)ヒンデミットも素晴らしいが、このCDの最大の名演は、プロコフィエフの交響曲第三番だ。あまりメジャーとは言えない曲だが、バーバリスティックな迫力がたまらない。
最後に、(おそらく彼が最も得意とする)オペラを一つ挙げよう。

 ベルク/Wozzeck: Abbado / Vpo Grundheber Behrens Raffeiner Langridge ベルク/Wozzeck: Abbado / Vpo Grundheber Behrens Raffeiner Langridge
販売元:HMVジャパン
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ルルが未完であったため、ベルクの最高傑作をヴォツェックだという人は多いだろう。この演奏は現代におけるヴォツェックのスタンダードと言える名演だ。この演奏はライブ録音だが、映像が残っていないのが本当に悔やまれる。ヴォツェックは、何というか非常に凝縮された無駄のない精緻な音楽だ。それをこの演奏は非常にクリアに表現している。HMVのユーザーレビューも概ね評価されているようなので参考にしてほしい。
(日本版で2300円で手に入るとは良い世の中になったものだ・・・あ、でも歌詞対訳がないって)
さて、以上だが、容易にわかるように、私の音楽の趣味に偏ったものだ。それは仕方ない。彼の本領はおそらくロッシーニ等のイタリアオペラで発揮されると思う。また不幸にして、私は彼とベルリンフィルが組んだ名演を知らない。それらは誰か他の人のレビューを待つことにしよう。きっとアバドが歴史に残る素晴らしい指揮者であることをネットの住民が証明してくれるだろう。

世界の構造改革におけるハイエクの誤認

リンク: 「小泉構造改革」は誤解の集積だった.

「隷従への道」を読んで、すっかりハイエクの虜になっている私ですが、この記事を読んで少し頭が冷えました。

サッチャーは自伝に書いていますが、ハイエクの著作の『隷従への道』(1944年)を壇上で叩きつけながら、この中に我々を救う解決法があると言って、象徴としてハイエクを使った。彼らにとっては社会主義的な精神と戦うためで、政策もかなり過激でした。

なんだそうです。皆、感化されるのは一緒のようですね。そして、イギリスは(成功もあったが)失敗して、最近は政策の見直しが行われているそうです。例として教育があげられています。

規制緩和というのは、政府の介入を調整して景気を刺激しようというれっきとした経済干渉政策です。

うーん。これは半分賛成のような。過剰な規制を緩和するのはありだと思うのですが。しかし、小泉構造改革のときは、ほとんど無批判で、規制緩和をいろんなところで導入して失敗を招いているというのは事実だと思います。官僚も成果をあげたいと思っていたのでしょうね。最大の失敗(というか失政かな)は、障害者に関する法制の改訂だと思います。フリードマンもハイエクも障害者に自己負担せよなんて、一言も言っていない。責任ある人間が、市場で競争できるのであって、責任を持つことのできない障害者は、国家で保護されるべきで、それは国家の役割です。やっと見直しされているようですが。

アバド礼賛(その1)

古いオーケストラに所属していると、つまらない聞きたくない年寄りの愚痴を聞くこともあるものだ。先日こういうのを聞いた。
「最近の指揮者はつまらねえ。フルトヴェングラーの時代は良かった。アバドなんてどこがいいか全然わからん。」
こういう意見は、割とよく見かけるものだ。しかし、アバドがフルトヴェングラーに比肩できるような指揮者であるかは不明だが、自分は歴史に残る偉大な指揮者だと思っているし、少なくともカラヤン程度には比較しうるだろう。フルトヴェングラーやトスカニーニは偉大だとは思うが、きちんとした録音で聞くことがほとんどできないので、その力量はノイズだらけの音源から推定するしかない。それに比べて、アバドは優れた録音の名演を、私が知る狭い範囲でも、それなりに残しているのだ。それを挙げてみよう。
まずは、彼が得意とする声を含む音楽を2つ挙げる。

 プロコフィエフ/Alexander Nevsky  Etc: Abbado / Lso プロコフィエフ/Alexander Nevsky Etc: Abbado / Lso
販売元:HMVジャパン
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アレクサンドル・ネフスキーはソ連国威発揚の曲なので、軽く見られがちだが、この演奏は圧倒的だ。冒頭からこれまでどこでも聞いたことの無いような鋭いサウンドが炸裂する。ラストの盛り上がりは感動的だ。痺れる。思想信条を超えた名演だ。ちなみに、一緒に入っている「スキタイ組曲」も定評のある名演だ。

ワルシャワの生き残り、ほか アバド&ウィーン・フィル ワルシャワの生き残り、ほか アバド&ウィーン・フィル
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ワルシャワの生き残りが超名演だ。戦慄を覚える「怖い」演奏だ。7分程度の短い曲だが、そこに刻まれた深い内容には感嘆せざるを得ない。戦争の悲劇を克明に伝えている。終結部で合唱が入る部分の圧倒的な迫力。斧が振り落とされるかのような強烈なラスト。
ちょっと長くなったので続きは後日・・・

日本語が亡びるとき

日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で

水村 美苗

筑摩書房


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現代日本に生きる我々は、書き言葉と話し言葉というのは、同一というか近しいものだと思い込んでいるけれども、古来、その二つは明確に区別されていた。過去の西洋にとっての代表的な書き言葉はラテン語であり、日本にとってのそれは漢文であった。書き言葉の役割は「(広い意味での)学問を記し伝達する」ということであり、知的エスタブリッシュメントが使用するものであった。よって、書き言葉にとって重要なことは、学問的な業績に容易にアクセスできることであり、できるだけ多くの人に読んでもらえることであり、現代においては、世界的に英語が書き言葉として支配する状況になっている。インターネットやITの発達はそれに拍車をかけている。そのような中で、日本語は奇跡的に書き言葉としての地位を確立していた。それは、植民地支配にあわなかった、島国であった、等の幸運にも恵まれたが、漱石や鴎外等の近代文学を確立した偉人の努力にもよるのである。しかし、現在、日本語も他の言語と同じように亡びようとしている。このままでは知識人たちは、英語を主に考えるようになるであろう。日本語の遺産は偉大であり、近代文学を教育に積極的に取り入れることによって、その価値を伝えていくべきと問う。小説家であり、日本近代文学の教師でもある著者の訴えは説得力がある。

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